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vol.7 水に棲む home
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多摩川上流処理場訪問
 
恐怖!都市に下水道がなかったら  東京の川はこれからますます美しく蘇る。
 
「きっと川はきれいになる」と多摩川上流処理場の笠原勝己さん。 都市で下水道がなかったらどうなるか。歴史が答えてくれる。太古の昔から存在した下水が中世ヨーロッパでは消え失せた。ローマ帝国が崩壊し、行政機能が働かなくなったためである。19世紀初頭のイギリス。産業革命が起こりつつあり、都市に労働者が集中しはじめる。下水がないので街の道路に汚水と汚物があふれかえっていた。マンチェスターには380人の住民に対し、便所はたった一つしかないというありさまだった。
 コレラが大発生、1831年であった。1848年に公衆衛生法が制定され、下水道、上水道の整備事業が開始された。パリでも同じことが同じ年に起きた。1850年代から大規模な下水道工事が始まっている。日本でも起きた。東京にコレラ大流行。1877年だった。都市に下水道がなければコレラが流行するという関係。
「明治時代にコレラが蔓延した。伝染病で10万人が死んだそうです。下水道の重要性を認識した。しかし普及にはまだ時間がかかった」。笠原勝己さんが詳しい。笠原さんは肩書きが長いのだ。東京都下水道局流域下水道本部技術部多摩川上流処理場処理係長。漢字で29文字。おかげでどこでなにをなさっているかすぐわかる。
 下水を作るにはお金がかかる。列強(古い言葉だ)に追いつき追い越せ、足もとを見ているヒマはない。国力はついたが、下水がないために都市は汚れた。「昭和になって公害国会があったりして、都市のインフラには下水を含むべきとの認識が深まった」。たとえば隅田川。第二次世界大戦後になって工場廃水などで徹底的に汚染され一時は「死の川」とまで呼ばれた。有名な花火大会も1961年から中止された。復活したのは1978年である。 コレラを封じたばかりでない。川さえ年々美しくよみがえりつつある。東京23区で下水道の普及率は100パーセントである。ただ「2、3年まえです、そうなったのは」。ということはだ、これからまだ東京の川は美しくなる!
 
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下水の排除方式に2つの方法  合流式と分流式。雨水をべつにするかどうかの違い。しかし大きな問題を含む。
 
  展望台から処理場を見下ろす。整然としていてまるで公園。多摩川がすぐそばを流れている。 笠原さんに、下水についてはじめから話してほしい、と頼む。では、と笠原さん。「下水には3種類あります」。知らない。「生活排水、便、ウスイです」。ウスイ? 「雨水です」。雨水も下水なのだ。
 雨水を下水とみなすのは都会ならではの事である。ビルとアスファルトで固められた道路では雨水は地中に染みこむことがいっさいできない。都市型の水害に対して下水道が活躍しなければならない。大量に降り注ぐ雨水をおだやかに誘導する必要があるのだ。「で、ですね、下水の排除方式には2つの方法があるんです」。それがどうしたのか、と思わずにはいられない。だが、それは説明にじゅうぶん値する重大な問題を含んでいた。
「合流式と分流式の2つです」。合流式とは3種の下水をみっつとも一本の管で流す。分流式とは雨水を別管で流す。これは分流式のほうがよい。「いきなり大量の雨が降ると、合流式だと、管のなかにある油のかたまりやゴミがあふれだす可能性がある」。分流式ならかりにあふれたとしても、それはただの雨水にすぎない。


 
第2沈殿池全景。あとは塩素処理を待つだけ、水はまもなく川へ戻される。 第2沈殿池全景。あとは塩素処理を待つだけ、水はまもなく川へ戻される。  さて日本にはどちらがより普及しているだろうか。残念ながら、合流式なのだ。多摩地区では4分の1が合流式と割合が低く、さらに降雨初期の下水を貯める施設を整備するなどして、汚物流出を防ぐ対策を講じている。「合流式はさきに下水が完成した大都会に多い。地方はあとからだから分流式、傾向的にそういえる」
 資料をあさると、日本最初の下水は東京神田鍛冶町などに4キロほど敷設された。オランダ人技師が指導し、それは分流式だった。日本人技師による最初の下水は、中島鋭治によるもので仙台市に1913年に完成した。合流式だった。以後、広島、大阪、名古屋、東京とつづき、戦後になっても合流式が主流だったである。
 合流式と分流式。「下水は分流式でなくては」と、求められたら、これから胸を張って意見をいえる。 
 
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