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vol.5 知られざる水の道 home
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Part.1 水栓からほとばしる「近代水道誕生秘話」
 
長崎   西洋医学、写真……、江戸から明治にかけて長崎発祥のものはたくさんありますが、伝染病の流入も例外ではありませんでした。
 
 特にコレラはまだ病原菌が発見されておらず、検疫などの考えもなかった時代であり、長崎から全国に広がっていきました。古くは1714年、鎖国が解かれた1859年、明治に入って1885(明治17)年、1886年には猛威をふるいました。当時の新聞は連日コレラの患者数や予防対策の記事で埋められており、長崎の町は昼間でも家々の表戸はかたく閉ざされ、道に人影はまばらで、官庁や学校も廃庁、廃校同然。煩雑に出入りしていた外国船も長崎に立ち寄らなくなり、居留地の外国人は衛生設備の完備を外務省に強く要望しました。 配水池
1891年、長崎市郊外本河内郷に完成した水道施設のひとつ、配水池の内部。設計はJ.W.ハード、容量4,180m3、現在も使用されている。
 

水道工事の図

  長崎県では、まず下水道大改善に着手。下水道幹線を板石や瓦材で三面張りにし、しっくいで固める工事を行い、汚水が井戸に浸透するのが防がれました。が、各町の井戸の水質検査の結果はほとんどが飲料不適で、一刻も早く上水道建設が急がれることが明らかになりました。清国上海水道会社の工師長で英国土木学会会員J・W・ハードの案を受けて日本人技師吉村長策が設計を担当、鋳鉄管、弁類、セメントなど資材はほとんど外国製で、予算見積りは当時の長崎区(現市)年間予算の7.5倍、30万円というものでした。


 長崎区では日本初の地方債を発行し国内3番目の水道建設に着手しますが、工事関係者は全員未経験でした。約2年をかけて市郊外の高台、本河内郷の谷間に完成したのは貯水池の大きな土手、これに満々と水をたたえた人工湖、濾過池・配水池の大きな四角い池など、どれもこれも見たこともない風景でした。市内では共用水栓から水がほとばしり、ここには連日、水汲みや米とぎのための長蛇の列ができました。市民が水道に慣れるのが第一と考え、市が給水開始から約1か月半の間無料給水としたからです。

日本人技師吉村長策の手による水道工事の図。
 
整理券
近代水道が完成した1891(明治24)年の10月「長崎くんち」(長崎最大のお祭り)のときには、お祭りだけでなく水道施設へも見物客が県内外から押し寄せた。見物客整理のために発行された整理券。
 
石橋 本河内高部ダムの水底に眠る幻の石橋。江戸時代末頃地元住民の手で架けられたもの。 本河内高部ダム
本河内高部ダム。日本で3番目の上水道として完成したが、貯水池(水道専用ダム)方式では日本初(他は河川取水)で、当時の土堰堤は現在も一部鉄管とともに健在。
 
 
コラム 近代水道までの218年間、人々の暮らしを支えた「倉田水」
 
江戸時代の長崎   木樋主幹
水樋の陶管
江戸時代の長崎。出島という人工の島(扇形)をつくり、長崎市中とは
橋一本でつながるその島にオランダ人の屋敷が立ち並んでいました。
 
 長崎で廻船問屋を広く営んでいた2代目倉田二郎右衛門吉重。彼が家業のかたわら4年がかりで水源調査、測量、設計をし、工事仕様書、絵図面、資材購入、人足集めの見通しや予算の見積書をすべて独学で作成し、私財をなげうって足掛け7年がかりで完成させたのが長崎初の上水道です。湧水豊富な川の中に堰を築き、水車で水を高いところに引き上げ、ここから50余か町に自然流下で送水しました。1673(延宝元年)年10月、人々は木樋からなみなみと流れてくる清洌な水をまのあたりにし、この水を倉田水と呼んで代々語り継ぎました。
 特に水に不自由していた出島のオランダ商館にも竹樋の水管橋で通水され、オランダ人たちはたいへんな喜びようだったといいます。

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