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村山貯水池(多摩湖)と山口貯水池(狭山湖)は、東京都と埼玉県にまたがる狭山丘陵を利用して作られたアースダム形式の貯水池です。

季節の変化や需要の変動に対応

山口貯水池は、隣の村山貯水池と連絡管でつながり一体運用され、小作取水堰や羽村取水堰から取水した多摩川系の水を貯留し、東村山及び境浄水場へ導水。これにより、降水量の季節的な変化や水道需要の変動に対応し、安定した水源の確保を図っています。

貯水池のシンボル取水塔

重厚なデザインのドーム屋根、アーチ窓でアクセントをつけたタイル張りの外壁が特徴の村山下貯水池の第一取水塔は、東京都の「都選定歴史的建造物」に選定されており、貯水池のシンボルとして親しまれています。



多摩川の河口から上流約54qに位置し、川をせき止める「投渡堰」と「固定堰」、魚類が行き来する「魚道」および、せき止めた水を取り入れる「第1水門」で構成される取水堰は、多摩川の水を取水する役割を担っています。

江戸からの技術を伝承する 投渡堰

投渡堰は非常に珍しい型式で、江戸時代の技術が今も継承されています。



玉川上水は人口が増加した江戸時代に、市中への給水を目的として幕府の命で作られました。近代においては羽村取水堰と淀橋浄水場を結ぶ重要な水路として活用された他、ヤマザクラが生育する屈指の景勝地としても知られています。

工事請負人玉川兄弟

幕府は庄右衛門、清右衛門兄弟を工事請負人に任命。1653年に工事着工。羽村取水堰から四谷大木戸までの全長約43q、標高差わずか92m、100mあたり約21pという緩い傾斜をつけた水路が、彼らの高度な水利技術によって8ヶ月という短期間で見事完成しました。翌年6月には江戸城をはじめ、市内の南西部一体に給水。工事に尽力した兄弟は、褒賞として玉川の姓を賜りました。

近代、そして現代へ

江戸時代に建設された玉川上水は、近代水道においても、羽村取水堰と淀橋浄水場を結ぶ水路として利用されていました。1965年に淀橋浄水場が廃止となり、現在は羽村取水堰から小平監視所までの上流部が、水道原水の導入路として使用されています。

清流復活と保全への取り組み

淀橋浄水場が廃止され、通水されなくなった玉川上水の一部が暗渠化されると、地域の人々を中心に、玉川上水保全の運動が起こりました。そこで東京都では、1999年3月、玉川上水を歴史環境保全地域として指定。歴史的価値の高い水路や、樹林帯としての自然環境などが保全され、玉川上水は、今でも桜の名所として、多くの人々に愛されています。

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