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家康の夢「幻の川辺城」

家康は、現在の駿府城よりも西側、安倍川の川辺に築城することを構想していた。当時の世界は、大航海時代の真っ只中で、ヨーロッパでは地球的規模で多くの船が世界の海を走り回り、そしてまた日本にも多くの外国船が出入りしていた。そんなダイナミックな世の中に相応しい城を築くことが家康の夢で、大御所政治の理想の姿を、駿府で実現することにこだわったのだ。そのためには、城は川辺になければならない。安倍川を安全な川に大改修し、そしてそこに運河を造り、その流れを城まで引き込み、天守真下まで船を接岸させるのだ。世界各国から来航する船が海を渡って港に入り、川を上って運河へ、そしてそのまま家康のいる城へと迎え入れる計画だった。それは、江戸を秀忠に譲り、大御所政治をスタートさせる上で、どうしても実現させたい家康の壮大な夢なのだった。

しかし、その夢は遂に実現しなかった。大雨によって「暴れ川」となる安倍川はあまりにも危険で、その川辺に築城することは断念せざるを得なくなった。結局、駿府城は天正時代(1586〜90)に家康が築いた城を拡張することで決着した。幻に終わった川辺城だが、駿府城が海と直結する夢を、家康は捨てることができなかった。城の東側に位置する清水港から、川を渡って駿府城に通じる水路を完成させたのだった。

二ノ丸水路

本丸堀と二ノ丸堀をつなぐ水路で、本丸堀からの水を外へ流す目的で築かれてたもの。本丸堀との接続部分は約2mあり、段差を設けて本丸堀の水位を保つしくみ。また水路両側は石垣で、底の部分にも石が敷かれ、底が洗い流されない非常にめずらしい構造となっている。

数字で見る 家康&江戸の凄さ

徳川家康が征夷大将軍となった1603年から、大政奉還した1867年まで、約260年もの間、江戸時代が続いた。これほどの長期間に大きな戦がなく、平和な世の中が続いたことは世界でも珍しいことといわれている。武士を中心とした身分制度の確立や、「参勤交代」のように大名たちの力を抑える仕組み、諸外国との関わり方など、長期安定政権の要因は諸説ある。ただ確かに言えることは、安定した時代が続いたことによって、日本独自の文化や教育、社会が発展し、人々の暮らしがより豊かになったことは間違いのないことだろう。

家康は75歳でこの世を去った。江戸時代の平均寿命が40歳前後といわれ、それと比較すると、かなりの長寿といえる。徳川家の16代将軍の平均寿命も約50歳で、徳川家が特別に長寿の家系というわけでもなさそうだ。実は家康は、健康マニアとして有名で、趣味の「鷹狩り」で適度な運動を心がけ、(晩年は太ったとされるが)バランスの良い食事や、薬の知識も豊富で自ら調合するなど、健康には人一倍気を使っていたといわれる。この長寿によって、家康はより完成度の高いまちづくり、より高度な仕組みの世の中を創造していくことができたと考えられる。

江戸の幕末では、日本の識字率が70%以上だったといわれている。武士などの上流階級では100%、庶民でも約半数は読み書きができたという。当時のイギリスでも1割程度の識字率だったといわれており、その頃の日本の教育がいかに進んでいたかに驚かされる。長期安定の時代だからこそ、人々は落ち着いて勉学に励めたのかもしれない。そしてまた、勤勉で知られる家康の思想が後の将軍にもしっかりと受け継がれ、教育水準を着実に上げていったとも考えられる。

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