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江戸城の基となった「駿府城下」。

類いまれな知恵と知識、そして創意工夫によって、理想の都、近代国家の礎となるまちづくりを成し遂げた徳川家康。260年余りに渡る平和国家“江戸時代”を築いたことは、世界史上例を見ない偉業である。
そしてまた、江戸城下は下水道の整備・ゴミの収集・リサイクル文化が定着したクリーンな都市としても知られている。
実はそれ以前、江戸より先に、近世のまちづくりの基本となる城下町が、家康によって創られていたのだ。駿府城(現在の静岡市)である。
生涯のおよそ三分の一を駿府で過ごした家康は、この地に、自らの理想とするまちづくりを目指し、人生の夢を捧げた。
駿府城下は水路が張り巡らされ、水運も発達した機能的なまちで、駿府型町割は江戸城下にもその原理が応用された。
壮大かつ緻密に計画された家康のまちづくりとは。その足跡を辿ってみたい。

家康が駿府城下を選んだ理由とは。

徳川家康(幼名:松平竹千代)は、今川氏全盛期の天文18年(1549)に人質として、19歳までの12年間を駿府で過ごした。そこで臨済宗の住職太原雪斎などから教えを受け、人間形成の上で重要な期間を過ごしたのだった。
その後、天下統一を果たした家康は、江戸を2代将軍秀忠に譲り、平和国家の最後の仕上げ、「大御所政治」の拠点として駿府を選んだ。それは、幼少期に暮らした場所であることに加え、戦略的な考えに基づくものだった。「駿府は、江戸と京都の中間に位置し、山・川・海の幸が豊富に手に入る。城に加えて大寺院を建てれば、いずれは京都・大阪をも超える大都市に成長するだろう」と、駿府というまちが、地理的にも資源的にも無限の可能性を秘めていると強く感じとっていたのである。
その中心となったのは駿府の中央を流れる安倍川である。江戸では利根川の改修に着手したように、家康は、安倍川の大改修工事が駿府城下町にとって最も重要な事業のひとつとして捉えていた。日本屈指の急流河川。その流れをコントロールし、まちづくりに活かす。正に駿府城下の要となる一大事業となった。

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