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駿府城下町には、用水が縦横に張り巡らされており、この用水の水源は安倍川で、薩摩土手に設けられた3つの水門から駿府城下へ「駿府用水」として流されていた。安倍川のきれいな水は城下の隅々にまで供給され、人々の生活を潤していた。これは飲料水ではなく、城下町の浄化や防火、悪水の処理に使われていたもので、さらに、ここで面白いのは、この用水の流れが町割りの計画とともに、緻密に計算されたものであったということだ。
用水は、まず最初に上流武士や寺社地域を流れ、その末端は特に水を汚す職業集団や、田畑の農業用水として利用された。この流れの順路を作ることで、川下の町々で起こりうる、悪水による公害を防ごうと考えたのだ。
そのためにも、城下町の町割り、つまり住居区分がとても重要となる。戦国時代には町中にも農地が点在したり、そもそも武士と百姓の区別が曖昧だったが、駿府ではこれらの混在を一掃した。「士農工商」という江戸時代の基本的な身分制度を活かした城下町として、それまでの戦国時代に見られたように武士と百姓が同居することがなかった。「武庶別居住区域の原則」が、日本で初めて貫かれた城下町として誕生したのである。
商工業者の居住区は碁盤の目のように美しく造られ、城の周辺では武家屋敷が駿府城を守っていた。城下町の周辺には寺社が設置され、城と城下を守るまちの体制が完成していた。
通称「駿府九十六ヶ町」と呼ばれた駿府城下町は、“大御所”徳川家康の理想のまちであり、また権威の象徴として、後の江戸や名古屋の城下町をはじめ、日本全国の“まちづくりのお手本”となった。 そして、町中を隈なく行き渡った水路は、駿府城下のさまざまな職人の仕事や生活を支え、人々の暮らしの発展に貢献したのである。

城内には特別な名水「御用水」が引かれた

安倍川の伏流水を水源に持つ「鯨ヶ池」は、江戸時代以前から名水の湧き出る池として有名だった。家康は「駿府用水」とは別に、この名水を「御用水」として城まで引くように命じた。「御用水」は、駿府城のはるか北にある鯨ヶ池から下り、駿府城の本丸、二ノ丸、三ノ丸に至るが、この間の水の流れは厳重に「町奉行水道方掛同心」によって徹底的に管理されていたという。
現在もその用水の流れは残されていて、御用水川には多くの水生生物が生息する他、駿府城の外堀を流れる城濠用水(じょうごうようすい)は、今も農業用水を供給する水路として活躍している。

用水を汚す者 清掃活動を命ずる!

「町奉行水道方掛同心」が馬に乗って、常に用水の見回りをしていた。万一、用水にゴミなどが捨てられていたり、ゴミが溜まっていようものなら、同心がすぐさま最寄りの住民に清掃を命じた。また意図的に用水にゴミなどを捨てた者には、30日間の清掃労働を課せるという厳しい条項もあった。

緊急事態発生!その時、用水は?

用水は全てオープン且つ石積みで護岸されたものが基本設計で、所々にせき止める場所を設けていた。火災が起きた際に、火元の方向のまちにできる限り多くの水を流し、消火活動に使えるように堰(せき)を設けたのである。城下町には若干地形が高い地域もあり、水のまわりが少しでも遅れてしまうと大火災につながる危険もあったのだ。

雨水をトコトン活用 斬新なエコ発想!

家々の屋根から大量に流れ出る雨水を用水に合流させ、町中が水浸しや洪水にならないように配慮されていた。また、雨水の流れとともに家屋の汚れが流れ去るという、まちの浄化の役目としても計算されていたのだ。家々の屋根から流れ落ちる雨水は全て用水につながり、生活用水としても活用されていたのである。

夏の炎天下を瞬時に?涼しくする方法

真夏の暑い日や、乾燥した気候が続いて埃がたつ日など、一時的に用水の堰を閉じることで、わざと地面に水を溢れさせた。路面に水を行き渡らせることで、埃を押さえたり、町中で一斉に打ち水をしたように、気温を下げる効果が得られたという。

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