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日本屈指の急流河川である安倍川は、水や土砂の流れが激しく、常に災害と隣り合わせの危険な川であった。今から500〜600年ほど前の安倍川は、静岡平野の中心部を何本にも分かれて流れ、大雨が降れば一度に川が氾濫し、駿府のまちに大洪水をもたらしていた。安倍川の豊かで美しい水は人々に自然の恵みを与え、まちづくりの基盤となる一方で、一瞬にしてまちや生活を壊してしまう恐ろしい面も持ち合わせていたのだ。
こういった災害から駿府のまちを守るために、安倍川には室町時代から堤防が築かれてきた。しかしながら、家康が駿府でのまちづくりに着手してからも、安倍川の慢性的な洪水は人々の生活を脅かしていた。そこで家康は遂に根本的に川を作り直す大事業を行うこととなった。
まず、安倍川と藁科川の流れが全く別々だったものをひとつの流路として合流させ、これによって広く開けた静岡平野の中心部に駿府城下町を完成させたのだ。

今も人々を守り続ける「薩摩土手」

慶長11年(1606)頃から、駿府城の拡張工事に伴い、壮大な堤防の建設に取り掛かった。これには、駿府城やまちを安倍川の洪水から守るという役割に加えて、もしも駿府城を敵に攻められたときには、この堤防を切り崩して水攻めにするというのだ。(異説あり)
工事はかなり大規模なものとなるために、全国の諸大名を動員し、「天下普請」(公共事業)として工事に参加させた。中でも薩摩藩の島津忠恒(しまづただつね)は、船150艘に石や材木を積んで参加したという。「薩摩土手」(さつまどて)と呼ばれるその堤防は、長さ2400間(約4.4q)、高さ3間(5.4m)、堤防敷(堤防の底の幅)12間(22m)、馬踏(堤防の上部の幅)6間(11m)と、大規模なものとなった。
現在では、その一部分の長さ約700mの土手が残されるのみとなったが、今も洪水から市民を守る大切な土手としての役目を果たしている。
こうした家康の一大事業が行われなければ、今の駿府は果たしてどうなっていただろうか。そして駿府だけでなく、私たちの今の生活が守られているのは、こうした“偉人たちの功績”の上に成り立っているということが、しみじみと感じられる。「薩摩土手」はそんな貴重な史実を、今の世に語り継いでくれているのだ。

「この川、 渡るべからず?」 安倍川の川越制度

家康の隠居地で且つ重要な天領地でもあった駿府は、敵の侵攻を防ぐために安倍川に橋を架けず、また渡し舟も許されなかったという。旅人は着物の裾をまくり上げて川の浅いところを歩くか、川越人夫に賃銭を払って肩車されたり、人夫が担ぐ台の上に乗って川を渡った。ひざ下は16文(約500円)、股下は18文と水嵩が増えるごとに高くなり、胸から脇の下までいくと64文(約2000円)となった。大雨で増水すると「川留」(かわどめ)といって通行禁止になり、旅人は水かさが減るまで宿屋に泊まって待つことになったという。

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