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東京の給水史にその名を残す 駒沢給水所へ行く。

関東大震災で注目を集める

大正10年より起工した駒沢給水所。現在も歴史的に大変貴重な2基の巨大配水塔を擁している

 住宅地の中に突然、高さ30mのコンクリート造のレトロモダンな塔が2基現れる。駒沢給水所の配水塔だ。
 「この配水塔は、大正時代に当時渋谷町だったこの地域の町営水道として建造されました。北側の2号塔が大正12年3月に、南側の1号塔は同年11月に完成しています」と和田堀給水管理所主任の小澤正己氏が解説してくれた。 当時の水源は多摩川で、砧下浄水所を経て、駒沢給水所に水が送られた。そこから渋谷町内に配水していた。
 「大正12年9月に起こった関東大震災の影響で、井戸の破壊や枯渇が相次ぎ、給水の申し込みが殺到したそうです」
 大正12年末の給水戸数は5773戸を数え、同年12月の給水量は1日平均3830m3(一般的な25mプール11杯分)にのぼったそうだ。しかし現在では配水塔として機能はしてない。

田園都市線桜新町駅を降り、住宅地の中を分け入ると、一目で歴史的遺構とわかる建築が目に飛び込んでくる。

給水のしくみ。

当時の渋谷町の最高標高地点が36mに対し、配水塔の地盤標高は46mにすぎなかった。そのため配水塔の水深を18mにし、満水面の標高を64mに設定した。建造初期の配水方法は、その標高落差を利用した自然流下式だった

12本のピラスター(付け柱)が塔の上部にまで伸び、頂上部には紫色のグローブが取り付けられたモダンなデザイン

大正13年に設置された1号塔と2号塔を結ぶトラス橋。時代色を帯びたこの鉄橋だけを撮影するマニアもいる

給水のしくみ。

1号塔の外壁には「清冽如鑑」(セイレツカガミノゴトシ)と刻んだ銘板が、2号塔には「滾々不盡」(コンコントシテツキズ)と刻まれた銘板がはめこまれている。いずれも時の内務大臣・水野練太郎の筆

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