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竹生島神社

希代の本殿と美術が訪れる者を圧倒する

本殿の中に今も残る狩野永徳・光信による美しい天井画。400年以上の歴史をくぐり抜けてきた重みも感じられる。※本殿内部は普段は拝観できない

旅の最後に訪ねたのは、古くから神の斎(いつ)く島≠ニして、琵琶湖周辺に暮らす人々から崇拝されてきた竹生島だ。琵琶湖北部にプカリと浮かぶ周囲2qのこの小島には、水神が祀られた竹生島神社があるという。もちろん竹生島には船でしかアプローチできない。今津港か長浜港からのフェリーに乗って片道約30分かかる。容易には辿り着けない道のりが、神に出合うために必要な特別な距離感に思えてくる。
「2000年、3000年前の琵琶湖の周囲に暮らす人々は、湖水を田畑に使ったり、水産物を得たりしていました。その琵琶湖への謝念と畏怖の気持ちを込めて、人々は琵琶湖の沖に浮かぶ島に向かって手を合わせたと謂われています。それがこの竹生島であり、神様が住んでいる島と考えられていたのです」と竹生島神社の宮司、生嶋厳雄氏。長きにわたって島そのものが御神体と考えられてきたのだ。だからだろうか、島に降り立つだけで厳かな気持ちになる。
神社の歴史をひもとくと、420年に琵琶湖の湖水を守る浅井比売命(あさいひめのみこと)を祀る小祠(しょうし)が作られたのが始まりと伝えられている。現在の本殿は豊臣秀吉が寄進したとされ、伏見城の遺構だと謂われている。
いうまでもなく国宝だ。本殿の内部には、桃山時代の優美な装飾が施されている。天井画と襖絵は日本美術史上随一の天才と称される狩野永徳・光信の作。さらに柱や鴨居には豪奢な高台寺薪絵(金蒔絵)が見られる。400年以上前の華麗な美術が、特別な保護対策を講じていないにもかかわらず今なお傷まずに残っているのだ。
「竹生島は水に囲まれた島ですから、1年を通して湿度が80%もあります。本来なら天井画などはかなり傷むはずなのですが、それが見られません。美術専門の研究者も不思議がっています」
ひょっとするとそれは神の御力がもたらした奇跡なのかもしれない。世俗とかけ離れているこの島には、確かに神の存在がひしひしと感じられるのだ。

伏見城の遺構とされる竹生島神社の本殿。産土神(うぶすなのかみ)の浅井比売命や、商売繁盛の神である宇賀福神など四つの神が祀られている

竹生島神社の4代目宮司、生嶋厳雄氏。「竹生島は神域なので居住者はひとりもいません。私も毎日自家用船に乗り、この神社へ日参しているのです」

竹生島神社は、「神の斎(いつ)く住居(すまい)」の「つくすまい」が「つくぶすま」に転じ、そこから都久夫須麻(つくぶすま)神社とも称される

竹生島へはフェリーで行くしかない。今津港もしくは長浜港から約30分で、緑の生い茂る小高い島影が見えてくる

琵琶湖に突き出した竜神拝所の宮崎鳥居へ向かって、願い事を書いた土器(かわらけ)を投げる「かわらけ投げ」。鳥居をくぐれば願いがかなうそうだ

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「弁天様の幸せ願いダルマ」。願い事を書いた紙をダルマの中に入れ、本堂に奉納し願掛けをする

寺と神社が同居する島

竹生島には竹生島神社(都久夫須麻神社)だけでなく、奈良時代に開創した宝厳寺もある。寺と神社が同じ小島に並立しているのだ。元来竹生島は神仏が一体化した思想のもとに発展を遂げてきた。それが明治時代の神仏分離令により、半ば強引に神仏の関係が切り離されたにすぎない。分離令以降は、「宝厳寺」と「竹生島神社」にくっきりと分かれた。だからといって対立しているわけではなく両者の関係は昔のままで、宝厳寺の御坊さんが竹生島神社に参拝する姿も珍しくない。


本堂に続く165段の石段。足元には琵琶湖の広がりが見渡せる

江戸時代に落雷で焼失した三重塔が、2000年に当時の工法で再建された。高さ15.5mの総檜造りだ

宝厳寺の本堂には本尊弁才天象が祀られている。ここ宝厳寺は、日本三大弁才天のひとつに数えられている

■ 所在地:滋賀県長浜市早崎町

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