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日本の電気史の幕開け 日本の発電史をさかのぼると稀代の名藩主の名が登場する。これがどうやら歴史の通説

日本の電気史をひもとくと、その口火を切ったのは1882年(明治15年)に東京・銀座の街に灯されたアーク灯である。
アーク灯のまばゆい光のもとには、連日見物客が訪れたそうだ。アーク灯というのは、われわれが知る電球を使った電灯とはそもそも原理がちがう。電池をつなげた2本の炭素棒の間に起こる放電によって、明かりを灯すものである。つまり外部から電気の供給を必要としない電灯だったのだ。

では、発電は一体いつから行われたのか。
実は、幕末の薩摩藩主島津斉彬が作った東洋一のコンビナート「集成館工場」では水力発電が行われていた。
1882年には自家用発電のダムを作り、隣接する島津家の別邸「磯御殿」に明かりを灯している。その後も島津家は研究を続け、1907年には島津家が経営していた山ヶ野金山に電力を供給するため「水天渕発電所」を建造するに至っている。

ちなみに本格的な水力発電の元祖は、宮城県の宮城紡績会社が1888年に紡績機を動かすための40馬力の水力タービンに5kWの直流発電機をつなぎ、アーク灯をつけたのが最初だ。
いっぽう火力発電も負けず劣らず、宮城紡績所よりも1年早い1887年に、東京の南茅場町に石炭を燃料とした火力発電所が作られている。20世紀を目前にして、日本の発電技術は水力と火力の両輪で歩み始めたのであった。

銀座に灯ったアーク灯の明かりは、文明開化の象徴だった。現在も当時のアーク灯が日比谷公園に遺されている

(右)日本発電史にもその名を残す薩摩藩主、島津斉彬(左)1907年に島津家が作った水力発電所「水天渕発電所」の記念碑が、島津家別邸仙巌園内で見られる

1908年(明治41年)島津家の自家用発電所として建設され、15km離れた串木野神岡鉱山に送電していた。

日本の発電技術の変遷 水力発電の隆盛と衰退。しかしここに来て再び水力発電が注目を集めている

神戸にある日本最初の重力式コンクリートダム、
布引五本松ダム。大規模水力発電の始祖的存在

1880年代に足並みを揃えるように我が国で始まった水力発電と火力発電であるが、両者の割合は拮抗していたわけではない。

1907年に、山梨県大月市の駒橋発電所(水力)で、15,000kWの電力を55kVの高電圧送電線を用いて、約60km離れた東京早稲田の変電所まで送電できるようになる。するとこの技術革新が追い風となって、大都市に電気を送るために、地方に大規模水力発電所が続々と建造され始めた。
戦後の復興期にあたる1951年には、水力発電が日本の電力供給の70〜80%を担うまでになっていた。その後高度経済成長期を迎え、ますます日本の電力消費量が高まるが、もはや大規模水力発電所は建設し尽くされてしまい、水力発電所は頭打ちになった。

2009年度、電源別発電比率 電気事業連合会調べ

そこで発電の主力は水力から火力へと転換がはかられたのだ。火力発電は建設地の制約が少ない上、発電効率が大変高いからである。

ところが1950年代半ばになると、第三の波がやってくる。原子力発電所だ。火力発電のように化石燃料を必要とせず、CO2も排出せず、産み出す電力も膨大で安定的ということで、一気にもてはやされるようになった。だが近年、原発の危険性が取り沙汰され、自然エネルギーに転換すべしと声高に叫ばれているのはご存じのとおり。そんな風潮の中、原点回帰とも言える小規模な水力発電、「小水力発電」がにわかに話題になっている。次頁からは、今注目の小水力発電について掘り下げてみたい。水力の逆襲が始まろうとしている。

取材協力■全国小水力利用推進協議会/「仙巌園」観光事業本部

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