
淀橋浄水場が建設された当時はまだ未開発地域だったが、
大正末期には新宿駅を中心に急激に発展。関東大震災に まず地元の陳情による浄水場移転問題がおこる。
2回目は昭和初期、そして戦後におこった 3度めの移転問題は新宿区が中心となった。
都議会で移転が確定後、首都圏整備構想の一環をなす 新宿副都心計画に沿って建設が進む。浄水場跡地は11区画として
都水道局の手で土地売却がすすめられた。

新宿副都心建設にともなって淀橋浄水場は昭和40年3月末に廃止。 浄水機能は東村山浄水場へ併設、配水機能は副都心の中央公園地下
に配水池と配水ポンプをもつ給水所として残された。配水池上の公園には、 浄水場からもってきた木々が木蔭をつくっている。跡地にはまず地上47階
のホテル、50階と52階のオフィスビル、55階の高層ビルが建設された。
日本初の大規模な都市渇水といえば、東京オリンピックを間近にひかえた昭和39年夏の渇水です。多摩川の水は枯れ、
奥多摩湖は干上がって底面が顔を見せるほどになりました。多摩川上流の小河内貯水池、村山貯水池、
山口貯水池の総貯水量の最低が8月20日には 346万5000トン、満水時の1.6%までになり、8月15日から24日まで
17区60万世帯(当時の都内全世帯のおよそ5分の1)に対して第4次制限強化(節減目標50%で昼間断水を伴う強い制限給水)がなされ、
東京サバクとまで騒がれました。この大きな危機を救ったのは8月20日以降の豪雨で小河内の貯水量が好転したことと、
戦前からの悲劇であった流量豊かな利根川から引いた水でした。以後、東京の水道の主役は多摩川から利根川・荒川へと移り、
現在では利根川・荒川水系が77%を占めています。
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