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震災、渇水、人口急増……

 都庁をはじめ超高層ビルが立ち並ぶ新宿駅西口副都心は、昭和43年まで夏の夕方ともなると澄んだ濾過池の水の上を とんぼの大群が飛び、芝生でおおわれた浄水池をもつ広大な淀橋浄水場でした。明治44年に創設工事が完了しましたが、 急増する人口と増え続ける水需要のために、わずか2年後には次の改良工事に着手しなければなりませんでした。 上流には村山貯水池、多摩川の取水口から43キロの送水のために新水路がつくられていきますが、 この拡張工事に大きな打撃を与えたのが震災です。震災といえば誰しも関東大震災を思い浮かべますが、 それより2年ほど前の大正10年12月8日にも地震が突発し、3日間全市断水になりました。 代田橋から淀橋浄水場へ流れ込む新水路(開渠)が決壊、淀橋の機能が全面的に止まったのです。そして大正12年9月1日、 震度6の関東大震災でもさまざまな被害を経験し、以後、新しくつくられる水道施設はすべて耐震構造をとるようになりました。

 


淀橋浄水場が建設された当時はまだ未開発地域だったが、 大正末期には新宿駅を中心に急激に発展。関東大震災に まず地元の陳情による浄水場移転問題がおこる。 2回目は昭和初期、そして戦後におこった 3度めの移転問題は新宿区が中心となった。 都議会で移転が確定後、首都圏整備構想の一環をなす 新宿副都心計画に沿って建設が進む。浄水場跡地は11区画として 都水道局の手で土地売却がすすめられた。


新宿副都心建設にともなって淀橋浄水場は昭和40年3月末に廃止。 浄水機能は東村山浄水場へ併設、配水機能は副都心の中央公園地下 に配水池と配水ポンプをもつ給水所として残された。配水池上の公園には、 浄水場からもってきた木々が木蔭をつくっている。跡地にはまず地上47階 のホテル、50階と52階のオフィスビル、55階の高層ビルが建設された。

 日本初の大規模な都市渇水といえば、東京オリンピックを間近にひかえた昭和39年夏の渇水です。多摩川の水は枯れ、 奥多摩湖は干上がって底面が顔を見せるほどになりました。多摩川上流の小河内貯水池、村山貯水池、 山口貯水池の総貯水量の最低が8月20日には 346万5000トン、満水時の1.6%までになり、8月15日から24日まで 17区60万世帯(当時の都内全世帯のおよそ5分の1)に対して第4次制限強化(節減目標50%で昼間断水を伴う強い制限給水)がなされ、 東京サバクとまで騒がれました。この大きな危機を救ったのは8月20日以降の豪雨で小河内の貯水量が好転したことと、 戦前からの悲劇であった流量豊かな利根川から引いた水でした。以後、東京の水道の主役は多摩川から利根川・荒川へと移り、 現在では利根川・荒川水系が77%を占めています。






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