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vol.12 京都を蘇らせた琵琶湖疏水 HOME
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インタビュー【水に感謝】今日の京都は琵琶湖の水が作った



琵琶湖疏水記念館の地階には、疏水分線扇ダムからの分水路の水が流れてくるトンネルがある。ここに北垣国道が遺した「楽百年之夢」の落款を100年後の京都市長が揮毫した扁額が掲げられている。
100年の夢はかなった

琵琶湖疏水記念館
館長 井垣成量
京都がかつて、水不足にあえいでいたとは、今からは想像できないかもしれません。むしろ水の流れる古都といった印象を、多くの人はきっとお持ちでしょう。しかし、10日も日照りが続けば、井戸水の涸渇に苦しんでいました。

琵琶湖の水がなかったら、今日の京都はなかった。それはまちがいありません。市民が使用している水の実に96%が、琵琶湖疏水でまかなわれています。そのおかげで、京都市の水道が不足したことは一度もありません。
北垣国道、田邉朔郎の2人には、京都市民はただただ頭が下がります。重機などない明治期に、あれだけの大工事をやり遂げたのですから。琵琶湖疏水工事のケタ外れな規模は、数字が如実に物語っています。
当時の金額で125万円かかりました。現在の金額に換算すると1兆円近いとも言われています。ダイナマイトやコンクリートは輸入品に頼りましが、レンガ1400万枚や石材は直営工場で生産しました。
工事動員人数、のべ400〜600万人。囚人も狩り出しています。あまりに工事が過酷なため、いっとき京都の犯罪が減ったほどだそうです。


大津付近にある琵琶湖疏水、第1疏水第1トンネル取水口付近

画期的で多目的な事業
それまで大がかりな土木工事といえば、外国人技師の指導のもとに行われていました。しかし琵琶湖疏水工事は、日本人だけで敢行しています。  琵琶湖疏水工事の主眼は、衰退しつつあった京都復興をめざしたものです。やはり、水力発電の導入が特筆すべき技術だったと思います。当時、日本の動力は火力発電や水車動力など含めて、1時間に4500馬力を生み出していた。そのうち、琵琶湖疏水を利用した蹴上発電所が、7年後には2200馬力を生み出していたのですから、いかに偉大な技術革新かがうかがいしれます。
紡績、たばこなど、いろんな産業に活用され、日本最初の路面電車が走り、ヨーロッパでも高く評価されました。  ほかに琵琶湖疏水が貢献したのは、運河の開通でしょう。京都には九条山(蹴上)、滋賀県側には逢坂山の2つの大きな峠がり、物資の輸送に難渋していました。しかし水運を可能にしたことで、物質の輸送に大きく貢献しました。  
蹴上の峠の高低差を利用したのが、蹴上の水力発電ですが、そのすぐ横にインクラインと呼ばれる遺構が残っています。水路では急流すぎて舟が上下できないので、荷物を積んだ舟を陸路で運んだ一種のケーブルカーです。  
また防火用水、灌漑用水、井水の涵養にも、琵琶湖疏水は役立ちました。画期的で、しかも多目的な事業だったといえます。
北垣知事が、インクラインの軌道下のトンネルに、こんな落款を遺しています。「楽百年之夢」。百年の夢を楽しむです。琵琶湖疏水は100年先の京都のためを思って作った、という意味です。そうなんです、100年たった今も、琵琶湖疏水は京都を支えてくれているのです。



写真上:
荷物を積んだ舟を載せて、峠を上り下りしていたインクラインの遺構。

写真右:
南禅寺水路閣を通り、「哲学の道」に沿って北上している疏水分線。

写真提供:
京都市上下水道局(page.1、2の下、3、4の中段)
京都市上下水道局・田邉家資料(page.2)  
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