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vol.12 京都を蘇らせた琵琶湖疏水 HOME
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北垣国道【発端】このままでは京都は滅亡する

北垣国道
kitagaki kunimichi
(1836〜1916)

幕末期には、倒幕運動の志士だった。ときには、柴捨蔵という偽名で日本全国を転々としたこともある。明治維新後、戊辰戦争での功績が認められ、新政府の重職を担い、各地で辣腕をふるってきた。明治14年、第3代京都府知事に就任。田邉朔郎を起用し、琵琶湖疏水工事を成功に導いた。
「琵琶湖と京都を水路で結ぼう」
明治2年、東京遷都が断行された。京都はそれを機に人口が減り始めた。
京都をこのまま衰退させてはいかんと、ある男が立ち上がった。明治14年に、京都府3代目知事に就任した北垣国道だ。かつては鳥取藩に仕官し、戊辰戦争にも参加した志士である。
北垣が京都を救った。
北垣が京都府知事に任じられたとき、江戸時代には57万7000人いた京都市民が、22万7000人まで減っていた。半分以下である。  
京都を甦らせるにはどうすればいいか。産業を振興させればいい。  
京都に大量の水を引き込み、水車工場を作り、その動力を利用すれば、産業が発展する。北垣はそう考えた。
水は、近隣にある巨大な水瓶、琵琶湖から引いてくればいい。そうすれば、物資を舟で安く大量に輸送することもできる。灌漑、精米水車、防火、井戸水の補充、衛生にも役立つ。この発想は、なにも北垣独自の発想ではなかった。あの平清盛や豊臣秀吉も、日本海から琵琶湖と京都の間に運河を引こうとした。だが硬い岩盤に阻まれて、工事を中止している。その後も計画こそ浮上してきたが、工事に踏み切る者はいなかった。  
北垣はちがった。やる。断固そう決めた。不退転の決意をした。  
琵琶湖はいうまでもなく滋賀県にある。滋賀県知事が黙っていなかった。 「なぜ、京都に水をくれてやらねばならんのか。ワシの目の黒いうちは一滴 もやらん!」と当時の滋賀県知事は北垣の申し出を拒絶する。  
大阪府知事からも突き上げがあった。京都を流れる水は大阪へ続いてい る。大阪はただでさえ水没しやすい土地だったため、「これ以上水を流して くれるな」というのだ。

京都市民もまた増税されることを憂えて反対した。
まさに四面楚歌だった。しかし北垣は、精力的に説得に努め、新聞に告諭書を掲載した。「疏水工事は、京都将来のため未曾有の大工事である。もしこれに疑惑を抱くのなら私の家に来てくれ。喜んで説明しよう」と。こうして周囲の雑音を壊柔して、日本史上、未だかつてない巨大土木工事が実現へと動き始めていく。
北垣にはもうひとつの大英断があった。若干23歳の田邉朔郎という人物を工事主任に抜擢したのである。大学卒業したての若造になにができるという声にも、北垣はただただ、「絶対大丈夫だ」と言い放ち、頑として翻心することはなかった。北垣は、彼(田邉)ならこの工事を必ずやってくれる男と見抜いた。そしてその眼力は、正しかった。  

南禅寺水路閣
南禅寺にヨーロッパ調の建築がある。長さ93.18m、幅4.06m、レンガ造りの水路橋だ。水路には、琵琶湖から引いてきた水が流れる。もちろん今でも水が流れている。建築当初、福沢諭吉は「そんな西洋かぶれのものを作ってどうする」と批判したそうだが、いまでは日本を代表する近代遺産として国の史跡に指定されている。
 
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