
北垣国道
kitagaki kunimichi
(1836〜1916) |

幕末期には、倒幕運動の志士だった。ときには、柴捨蔵という偽名で日本全国を転々としたこともある。明治維新後、戊辰戦争での功績が認められ、新政府の重職を担い、各地で辣腕をふるってきた。明治14年、第3代京都府知事に就任。田邉朔郎を起用し、琵琶湖疏水工事を成功に導いた。 |
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明治2年、東京遷都が断行された。京都はそれを機に人口が減り始めた。
京都をこのまま衰退させてはいかんと、ある男が立ち上がった。明治14年に、京都府3代目知事に就任した北垣国道だ。かつては鳥取藩に仕官し、戊辰戦争にも参加した志士である。
北垣が京都を救った。
北垣が京都府知事に任じられたとき、江戸時代には57万7000人いた京都市民が、22万7000人まで減っていた。半分以下である。
京都を甦らせるにはどうすればいいか。産業を振興させればいい。
京都に大量の水を引き込み、水車工場を作り、その動力を利用すれば、産業が発展する。北垣はそう考えた。
水は、近隣にある巨大な水瓶、琵琶湖から引いてくればいい。そうすれば、物資を舟で安く大量に輸送することもできる。灌漑、精米水車、防火、井戸水の補充、衛生にも役立つ。この発想は、なにも北垣独自の発想ではなかった。あの平清盛や豊臣秀吉も、日本海から琵琶湖と京都の間に運河を引こうとした。だが硬い岩盤に阻まれて、工事を中止している。その後も計画こそ浮上してきたが、工事に踏み切る者はいなかった。
北垣はちがった。やる。断固そう決めた。不退転の決意をした。
琵琶湖はいうまでもなく滋賀県にある。滋賀県知事が黙っていなかった。
「なぜ、京都に水をくれてやらねばならんのか。ワシの目の黒いうちは一滴
もやらん!」と当時の滋賀県知事は北垣の申し出を拒絶する。
大阪府知事からも突き上げがあった。京都を流れる水は大阪へ続いてい
る。大阪はただでさえ水没しやすい土地だったため、「これ以上水を流して
くれるな」というのだ。 |