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vol.12 京都を蘇らせた琵琶湖疏水 HOME
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田邉朔郎【決意】100年の計に23歳で着手する

田邉朔郎
tanabe sakurou
(1861〜1944)

父は幕臣で、砲術の先生。明治10年に工部大学校(現・東京大学)に入学。卒業論文で「琵琶湖疏水工事」を執筆し、京都府知事の北垣国道の目にとまり、琵琶湖疏水工事の主任に、若干23歳で抜擢される。日本で最初の水力発電導入にも尽力する。その後、東京と京都の帝国大学で教授を歴任する。
これからは水力発電の時代だ
京都府知事北垣が、琵琶湖の水を京都に引く「琵琶湖疏水」工事の実現に東奔西走していたころ、田邉朔郎は工部大学校(現・東京大学)の学生だった。卒業を間近に控えていたため、卒業論文にちょうど取り組んでいた。卒論のテーマは「琵琶湖疏水工事計画」だった。
当時の工部大学校の学長、大鳥圭介と北垣は、古くから知人であった。日本人だけで工事を完成させたかった北垣は、明治15年4月、大鳥に相談に行き、田邉朔郎を紹介される。北垣は、田邉朔郎という人物を知れば知るほど、その気骨に心打たれるのだった。
田邉にはこんなエピソードがある。田邉は卒論執筆のために、琵琶湖方面へ測量に通っていた。そこで測量道具である削岩機を右手中指に落とし、怪我を負う。田邉は家が貧しかったため、たいしたことはないとやせがまんして医者にかからないでいたが、じつは骨折していた。田邉は右手を吊ったまま、左手で精緻な製図を描き、左手で論文を書き上げた。大鳥はこのとき思ったのだ。「これだけの根性の持ち主なら、どんな難工事も、やってのけるはずだ」と。  
北垣知事は当初、琵琶湖疏水工事の主任として、内務省の土木部長、南一郎平(安積疏水建設の主任技師)を招聘する予定でいた。だが、内務省は、一地方の土木工事に重要人物を貸すわけにはいかないと断った。  
そこで明治16年、卒業と同時に京都府に採用されたばかりの田邉朔郎に、琵琶湖疏水工事の大事業を一任する。こうして、北垣の熱意と田邉の頭脳が両輪となって、明治18年に工事が開始された。  
田邉はまた、新規開拓精神を持った人物でもあった。当初は水車動力を導入する予定だったが、アメリカで水力発電の機械があることを土木雑誌で知り、工事期間中に視察のため渡米する。

赴いた先はコロラド州アスペン。当時はアメリカでも、水力発電など荒唐無稽な技術だと物笑いのタネだった。けれども田邉は、これからは電気の時代だと確信する。水車動力は、広大な土地を必要とし、動力源である水車の近くにいなければ発生したエネルギーを利用できない。電気ならば、電線で遠くまでエネルギーを運べる。
田邉の進言で方針は変更される。発電機をアメリカから輸入し、明治24年、発電所が作られる。琵琶湖の水を利用した日本初の水力発電所、蹴上(けあげ)発電所である。
この発電所が日本で始めて、京都に路面電車を走らせた。家々に明かりも灯した。西陣織の機械化を初め、産業振興の足がかりになった。
 
蹴上発電所
琵琶湖から引いてきた水流を利用した日本最初の水力発電所。明治24年に運転を開始した。発電された電気は、京都市内の時計工場や紡績工場に供給され、京都産業復興の礎を作った。明治28年、日本初の路面電車「京都電気鉄道」にも電力を供給した。現在は、関西電力の管轄下にあり稼働中だ。(写真は第2期蹴上発電所〈明治45年当時〉)
 
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