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  世界でも希な大都会の繁栄を支えた水道。
 ■16世紀末〜明治



 3大将軍家光は参勤交代制度を導入。江戸の人口60万。もっと大規模な水道が必要だ。
 計画は多摩川上流の水を羽村から四谷大木戸(現在の新宿内藤町)まで43キロを通すというもの。
 最大の困難はその間92メートルという少なすぎる高低差だった。しかし玉川兄弟は苦労の末、承応年(1654)に玉川上水を完成させた。

 天明7年(1787)、江戸の人口は約200万。そのうち120万人は水道を利用していたとされる。当時ロンドンは87万、パリは67万であったというから、いかに江戸の人口がどはずれた桁であるかがわかるだろう。
 江戸市中へは、地下を網の目のようにはりめぐらされた樋によって配水されていた。樋は、町内の街角や長屋の一角に設けられた溜桝(ためます)につながり、水を蓄えるようになっていた。
  江戸の上水とはすべてが変わった。
 ■明治20年(1887)〜
     


 明治に入ると上水の老朽が激しく、明治19年(1886)のコレラの流行を契機として本格的改善が叫ばれるようになった。そして明治31年(1898)淀橋浄水場が通水し、東京も近代水道へと脱皮したのだった。
 近代水道とは、ろ過の過程を設け飲料水をつくること、鉄管により給水すること、などを特徴とする。それらの要素が全部盛り込まれたのが、玉川上水の水を導いた淀橋浄水場である。

 近代水道はまず、共用栓という形で一般市民の前にお目見えした。各戸に鍵が配られており、使用するときはその鍵を使う。当時の人々にとっては、脅威的画期的な進歩であった。というわけで、誰いうともなく「水の出る不思議な柱」。明治31年のことだった。

  さらなる充実をめざして。
 ■現在


 利根川水系で最大級のダムである矢木沢ダム。このダムは多目的、アーチ型という特徴をもっている。
 アーチ型の構造は水圧に強く、その結果使用コンクリート量が少なくてすむ。また、外観が美しい。日本のダムもここまできた。


 江戸川を水源とする金町浄水場は、オゾンと生物活性炭を利用した高度浄水処理という最新の浄水技術を誇る。これは、つまりおいしい飲み水を得るために開発された技術である。


 水の使用量は文化のバロメータといわれている。快適な生活と社会の発展のためには水が欠かせない。いつの時代でもそうであったように、水道の充実は今後もわれわれの重大な課題である。
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